J&H HOME(株)小野弘志です。東日本橋は晴れ。朝晩は30度を下回るようになってきました。暑さ寒さも彼岸までと言いますが、今年のお彼岸は9月20日から26日まで。いよいよ夏は終わるのでしょうか。
今日は9月11日。2001年の9月11日私はNYにいました。今朝の空より高い雲一つない青い空でした。今では教科書にも載る9.11私は1機目の飛行機が突っ込んだ1world trade centerにいました。当時金融関係の仕事をしていた関係で毎日6時半には出社していたため
通常飛行機が突っ込んだ8時46 分には一息ついている時間でした。
突然大きな音と共に世界貿易センターが大きく揺れました。私は東京の事務所とホットラインがあり常にスピーカフォンにして話せる状態であったため「地震だ!」と叫んだらしいです。その後、アメリカで地震は稀有な事93年に同ビルの地下で爆弾が爆発するテロがあったため、「爆弾かもしれない」と伝えたそうです。窓から遠かったので窓の近くに行って外の景色を見ました。紙吹雪のように紙が空に飛び散っていました。振り返ると同僚のスタッフは殆どが逃げていて事務所には私1人でした。その間2分くらいでしょうか?普段は太っていてフーフー歩いている巨漢の同僚が軽やかに走っていくのを見ました。私は変に落ち着いていたのか東京に事態を話しました。同時に近くのビルで働いている知人から電話があり
「お前のビル燃えているからすぐ逃げろ」と言われ東京にも「これから避難します」と伝え逃げました。私は25階に勤めていたのでオフィスの電気は付いていました。その日前週に避難訓練があったため大きなビルですが避難経路はわかっていました。(それが陰謀説に繋がっているようです。)避難時の人々は落ち着いていて消防隊員が上がってくるため階段の半分を空けて静かに階段を下りています。我先にという行動は見えませんでした。「帰ったらランチに行こう」「パブで飲んで帰ろう」などと話しながら階段を降りていましたから誰もジャンボジェット機が突っ込んだとは考えていなかったと思います。途中ビルが大きく揺れました。「また爆発だ」と感じました。勿論2機目が隣の2WorldTradeCenterに突っ込んだとは知りません。9時6分。(今だからわかる時間です。)階下から重い服を着た消防隊員が「Enjoy your half day」(早退いいね)とすれ違った時の彼らの笑顔が忘れられません。地上は危険なため地下を通じて逃げるように誘導されましたが地下は真っ暗で足元はスプリンクラーの水で溢れていました。事の重大さが少しわかってきました。地下のショッピングモールを通じて地上に出た時、多くの人がビルを見上げて口々に「人が降ってくる」と
叫んでいました。私は1度だけ振り返り青い空の中黒煙を吐くビルを見て驚愕しました。
今後の何が起こるか分からなかったので立ち止まらず急いで自宅に歩いて戻る事にしましたが途中橋を渡る際、泣きじゃくりうずくまる人々を多く見ました。このテロでwikipediaによると2977人の方が亡くなったといいます。テロから22年経ったこれまで陰謀説など沢山書物が出ていますが、なぜこの事件が起こらなくてはならなかったのかの真実は語られていません。survivor's guilt(残った事への罪悪感)と言いますが生き残った事への罪悪感に苛まれている仲間も多いです。何年たってもその人たちの心の傷が癒えないと感じます。この事件だけでなく毎日沢山の事件が起こっています。戦争も紛争も絶えません。報じられないような小さな事件でも失われた命があるなら周りの関係者のお気持ちを考えると生き残り生き続ける事の辛さを感じます。今日という日を風化させるだけでなく、日々起こる事件に対しその関係者の事を想うきっかけの日にしたいと思います。
2023年9月11日
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