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執筆者の写真J&H HOME

2001.9.11 僕はNYワールドトレードセンターにいました。


J&H HOME(株)小野弘志です。東日本橋は曇り。

今週もファミール浜町公園・クリオ東日本橋、内覧販売会開催します。


私は2001.9.11、NY ワールドトレードセンターで働いていました。

そして避難しました。 幸い助かりました。

今日は9.11から20年。今年は節目の年であり且つアメリカがアフガンから撤退する

といった出来事も重なり、ここ数年より報道を目にすることが増えました。

仕方ない事とはいえ、9.11が風化していく事に危機感を感じます。

日々多くの出来事が起こり、そして忘れられていきます。

自分に関係ないことを忘れてしまうのは避けられません。

だから、当事者であった人は忘れられる・風化する事に抗い発信することが大切だと思うようになりました。 

事件直後は対岸の日本からのコメントは興味本位に聞こえて事件について話すことを

亡くなられた方を思い避けていました。

しかし10年経ち、15年経ち人々の生活から9.11が消えていく中で

考え方が変わってきました。


あの日私は世界貿易センター(WTC)の北棟の25階にいました。

8:40頃ビルが大きく揺れました。地震の揺れとは違い足元から突き上げる揺れではなくNYに地震がない記憶から、ダイナマイトテロがあった'93年を思い出しました。

その時のオフィスは金融市場に勤務していたこともあり、全員出社している状態でしたが、私が東京のオフィスに報告をしている数分でほぼ全員が蜘蛛の子散らすように避難していました。

「非常階段に人が殺到して2次災害起きてないかな?」とも思いましたが、

整然と階段の片方を消防の為に開けて、避難する人たちを見て安心しました。

確かに当時、飛行機が突っ込んだり、2機目が突っ込むとか最終的にビルが崩壊するとは

夢にも思っていませんでしたから。逃げている最中も思いがけず早く帰れそうだから、

ランチしようとか話しながらゆっくりでしたが階段を下りていきました。

反対に階段を上っていく消防士から「早く仕事終わってよかったね」とジョークを言われました。

緊迫したのはロビー階に降りてから。それまで非常階段には電気は点いていたのですが、

ロビー階は非常灯だけで薄暗く、スプリンクラーで床が水浸しでした。(あとから聞いたところエレベーターのドアが開いたときバックドラフトで火が噴出したらしいです。)

警官に誘導されWTCビルから一番遠い近出口向かい地上に出ました。

空は雲一つない青空でした。 外は騒然としていて、紙が道を覆っていました。人々は

WTCを見上げて、多分飛び降りる人を見ていたのでしょう。その度に悲鳴が上がりました。 私は直視できず足早に非難しました。

その後ブルックリンブリッジを大勢の人と一緒に渡り自宅に戻ったのですが、起こったことを把握するのにかなりの時間を擁しました。 帰宅して1時間くらいして2WTCが倒壊。

粉塵で外が真っ暗になったのが焼き付いています。


経験を語り継ぐことが残された人間の責務ではないかと思い、今日は紙面割きました。

色々な思いと共に内覧販売会行ってきます。 昼休みにはみずほ銀行本店にある慰霊碑

に献花を手向けに行きたいと思います。

2021年9月11日











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